「職人」という名の絶滅危惧種について

 

 

「芸術?別に術は使いません」

 

 晩年「芸術だ」とほめそやされるようになった古今亭志ん生の台詞です。粋なもんですね。

 志ん生に限らず、数多の日本の「芸術」は、芸術家 Artist ではなく、職人 Artisan によって生み出されてきました。

 まあ別に日本が特別ってわけでもなくて、十九世紀になってもてはやされだしたフェルメールだって「職人」ですからね。ながらくその名が埋もれてしまっていたのも、「技量が鼻につくようでは半人前」という職人根性が災いしたんじゃないかと思います。

 

 さて、日本は江戸時代頃から職人を大事にし、「一人前」になることをもってよしとしてきました。ドイツだってそうじゃん?というツッコミはとりあえず置いといて、じゃあ「職人」ってなんでしょう?

 テレビや新聞に取り上げられるような人は、凡人にはマネできない超人的な技術を持ち、それでいて金銭には恬淡で、かつまた誇り高い、と。だいたいこんな感じだと思います。

 そして、そうした「職人」の持つ「精神」は日本人にあまねく共有され、日本のものづくりを支える土台となり、Made in Japan が世界から認められる原動力になっている……と、こういう具合にまとめられているんじゃないでしょうか。

 別にそれについて異論はないんですが、ちょっと足らないなあ、というか疑問を感じるんですね。

 

 というのは、職人が「いい仕事してますね〜」と感嘆されるような仕事をいつもしているか、というとそうでもないんです。むしろ永年の修練と練磨により、七割くらいの力で、常人が少々がんばったくらいじゃかなわないくらいの仕事をしてみせる、というのが職人というものです。

 なぜ七割なのか。職人と言えど人間ですから、長い間続けていれば、余所でイヤなことを言われていらついたり、夫婦喧嘩してむかつきがおさまらなかったり、風邪を引いたり花粉症になったり痔が切れたり、そうしたことがなくともだんだんに体が言うことをきかなくなってくるわけす。普段から七割くらいにしておけば、そうしたときにちゃんと調節できるんですね。芸術家先生のように「スランプだ〜」とか甘えたこと言ってらんないですから。

 こういうことは、ちょっと前の日本人は常識として共有していました。

 だから普通の人も職人のそうした「精神」だけを手本とし、仕事に習熟して七割くらいの力で長く続けること、をもって美徳としていたんです。そうした職人的な七割で働く「精神」は、諸外国から「働きアリ」と揶揄されるほど勤勉でありながらも、一定のゆとりを社会にもたらしていました。終身雇用なんかは、こういう精神の在り方にぴったりだったわけです。

 若者がすぐに転職することについて嘆くのも、この「精神」を受け継ぐことを願ってのことだったと思います。

「最近の若いもんは根性がない」というのは定番の台詞ですが、根性というか「精神」をないがしろにしているのは、本当に若者の方なのでしょうか?

 

 現代の「人件費をコストとしか見ない」経営思想は、こうした職人の「精神」を滅ぼしてしまいました。

 ちょっとその経営思想が何をしでかしたか、単純に解説してみます。

 職人として七割の力で働いている人は、三人集まると二人前とちょっとの働きになります。

 そこで一人削って、二人で十割の力で働くようにさせれば、人件費の節約になります。

 こんだけ。

 たったこれだけですが、これだけのことが重大な影響を及ぼすのです。

「失われた二十年」と呼ばれるこの時代においてなされたのは、上記に類することだったのは間違いありません。

 しかし、そこに職人の「精神」が生き延びる場所がないんです。かえって邪魔ですらあります。

 つねに十割であり続けることがもとめられるということは、その職業に「習熟する」ことがもとめられていない、ということでもあるからです。

「習熟する」ことは、次代にその技を伝える余裕を持つことでもあります。その余裕はやはり、職人的な七割の「精神」から生み出されていました。

 もはやすべてマニュアル化しているのだから、そうした職人の「精神」など邪魔なだけだ、ということなのでしょう。

 常に十割で働くことを求められ、マニュアルがすべてであり、労働者は取り替え可能な歯車に過ぎないのであれば、その先に待っているのは荒廃だけでしょうね。

 

 とまあ、現状はこのような惨状を呈しているのですが、今もテレビや新聞などでは、職人をほめそやしています。

 そして、そうした職人バンザイな記述を見るたび、なんだかうんざりしてしまうのです。とくに日経新聞なんかで見かけた日にゃ、悪い冗談みたいに思えてしまうわけであります。

 

 

 

職人 (岩波新書)