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そこでわたしの最後の遁げ場は、本というものは直接に読まないでも、いろいろなしかたで利用できるものだということを読者に今注意してさしあげることである。それはほかの多くの本と同じように書庫の隙間を埋めることができるであろうし、奇麗な装幀の本であれば、書庫の中できっと立派にみえることだろう。あるいはまた読者は、学のある女友達の化粧台なり茶卓なりの上に本を置くこともできる。あるいは最後に、いなこれこそが確実に最良の方法なので、私はとくにお勧めするが、読者は実に本を批評することもできるのである。
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ショーペンハウエル『意志と表象としての世界』初版の序文の終りに近い部分である。
一八一八年にこの名著は出版された。版元がショーペンハウエルの哲学の素晴らしさに感銘を受けたとかそういうわけではない。ベストセラー作家ヨハンナ・ショーペンハウエルの息子だから、少しは反響があるかも知れないとソロバンをはじいたのだ。
版元の思惑は哀れなほどにはずれた。ついでにショーペンハウエルの思惑も。
この書によって、ショーペンハウエルは多大な名声をつかむはずであった。そして、父の跡を継いで商人になることのできなかった自分を、ことあるごとに蔑む母親を見返してやるはずだった。
母ヨハンナは息子の本についてこう言った。
「こんな本、いつまでたっても読者がついたりしやしないよ」
息子ショーペンハウエルは、歯がみしながら言い返す。
「ぼ、僕の本は永遠に残る本なんだ。母さんの本のようにすぐに消えてしまうのとは違う!」
必死の息子をヨハンナは鼻で笑う。
「はいはいそうねえ。私の本はたちまち売り切れるから消えてしまうけど、あなたの本は永遠に残るでしょうよ、初版の在庫がね」
実際、『意志と表象としての世界』は再版まで二十六年かかった。そしてそのとき、母ヨハンナはとっくの昔に死んでいたのだった。
さて、ヨハンナは自分の息子の著作を読んだだろうか?
私は、おそらく全部は読んでいないだろうと思う。それなのになぜ、「読者がつかないよ」と言い切れたのか。それは、最初の序文だけは読んでいたからだ。
序文にこんな読者に注文付けするようなこと書いてたら、あきれて誰も読みゃしない。最初は「才能ある若者」と見込んでいたゲーテが、距離を置いたのもわかるというものだ。
私が以前やっていた編集下読みのアルバイトでこの本が持ち込まれてきたとしたら、まず「絶対に序文は書き直すこと。全部!」と大きく書いただろう。たとえ上掲に引用した文のすぐあとに「冗談、冗談」と書いてあったとしても(書いてあるんだよね、これが)、へたくそな冗談はかえって本音と受け取られかねないのでおくびにも出すべきではない、と余白に筆圧強くしたためたはずだ。
己が「偉大な哲学者である」という揺るぎない自信が、こうした読者を選別するような序文を書かせ、十数年もの間ショーペンハウエルを逼塞させることになってしまったのだ。自業自得の気味があるとはいえ、なんとまあ恐ろしい。
再版の序文からは、さすがこういう青臭さは抜けている。
しかし、最初からこう書いときゃいいのに、という知恵はだいたい遅れてくるもので、ほとんどの人がこうしたショーペンハウエルの若々しさを笑うことはできないだろう。
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