美味について書くということの困難さについてもしくはYAMAGATA-San-Dan-Deloにおける罪深いまでのおいしさ

開高健、最後の晩餐 (文春文庫 か 1-5) 

 

 五木寛之だったか、グルメについて「どうも粘膜の感覚について書くのは苦手だ」と言っていた。実際体験した味覚について、的確な表現をすることは難しい。よくあるグルメ記事のように、「こってり」「まったり」「あっさり」「すっきり」という定番の形容詞を、「それでいて」「なおかつ」「どこまでも」などでつなぎ、「といえる」「の他はない」「できるはずである」などと断言して読者の嗜好をそそる、というのは手軽ではあるけど、あーでも、だいたいこういうのってハズレが多いよね。「どっかで聞いたような台詞」でしか語れないような料理は、「どっかで食ったような程度の料理」ということなわけだ。

 

 なにやらグルメ批判のようなことを書き連ねてしまったが、それには理由がある。昨日、山形サンダンデロにおいて、知る人ぞ知る奥田政行シェフのフルコースを食べてしまったのだ。ひえー。

 で、その美味について書いてみたいと思うのだが、何をどう書いたらいいのかわからない。開高健ならどう書いただろう?ここはひとつ、降霊術を駆使して開高健の霊をこの身に降ろすより他ないのでは?

 まあ、そんなことは黄泉の開高氏にも迷惑だろうからやめといて、やはりここはつたない筆をふるうしかあるまい。

 

 まず、最初に出て来た一品に驚かされた。稚鰤(わらさ)の生の身を薄く切り、オイルと塩をふったというものだった。口伝えには聞いていたが、実際に食べるまではどんなものかイメージがわかなかった。最近は刺身を塩で食べさせる店も増えたとは聞いていたが、私の口中には半世紀かかって築かれた「醤油信仰」があり、それがローマ帝国のように歯から舌から味蕾の隅々、口蓋の奥に垂れ下がるのど○んこにいたるまで支配していたからだ。どんな塩だろうと、生魚に醤油以上のとりあわせなどあるまい、と信心していた。

 信心は、あっけないほどにくずれた。

 ひと口食べるや、稚鰤(わらさ)の旨味の一粒一粒、というのも変な表現だが、旨味にはやはりそれを構成する「粒」があり、それらが「塩」によって一粒一粒が際立ち、オイルによって際立ちつつもばらけることなくつながり、歯から舌から味蕾の隅々、口蓋の奥に垂れ下がるのど○んこにいたるまで広がる支配を一瞬で突き崩してくれたのだ。

 このあと、十皿以上つづく一品一品について、細かく述べるには筆が追いつかない。陸続と出る料理すべて、口内にすべり込ませるたびに目を見張った。

 

 グルメブームが批判的に語られたこともあったが、ブームが浅薄なら批判もまた軽佻なものでしかなかった。

 が、しかし、今あらためて、美食はやはり罪だと言える。

 そして、罪には罰が伴う。

 これより先、いかな料理を食べようとも、心の隅で小さくため息をつかざるを得ない、という罰だ。

 重ねてさらに恐ろしいことには、そのような罰が一生ついて回ろうとも、私には一片の後悔もないのだ。

 

 

人と人をつなぐ料理―食で地方はよみがえる