さて、ここからが本番。
今回、一連のエントリーを書くに当たってハイエク全集を一通り読破した。(誰かほめて!)
そうしてみて、あらためて見えてきたことがある。それは今まで見ていたはずなのにピントがぼけていたと言うか、メガネを新しく買い直したときのようにはっきりと見えるようになった、という感覚に似てるかな。
まず一つ目。自由とは何か。
そしてもう一つ。なぜ老人でありながら福祉政策に反対したり、女性でありながら女性差別に賛成したり、自分も昔はクソガキだったくせに子供にやさしくすることができない人たちが存在するのか。
以下本日分のエントリーではハイエクからの引用はしない。長くなりすぎるからだ。だけど、すべてハイエクを読むことで得られた知見であることを宣言しておきたい。念のため。
ハイエクは自分でも述べているようにpuzzler(ぐだぐだ余計なことばかり考える人)であり、学科秀才と違って、大事なところが抜け落ちていたり、言おうとしたことがうまく書けなかったり、話がしょっちゅう横道に入っちゃったりする人なのだ。だからハイエクの本をまともに読もうとすると、方向音痴のガイドに率いられた旅行者のように、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、へとへとにさせられてしまう。
まず、ハイエクは自由を否定する自由主義者である。え、なにそれ、て感じだが、自由には二重の意味があるということだ。英語だとfreeとlibertyがあるけど、日本語だとどっちも「自由」なんでへんてこなことになる。そこで便宜的に、消極的自由と積極的自由に分けてみる。分けてみるってか、日本語の解説書なんかはそう書いてるのでマネしておこうかと。
積極的自由というのは、理想的な自由。思想の自由とか言論の自由とかあるでしょ。アレのこと。理想のあるべき形での自由がまずあって、人間はそれを追い求めるべきだ、というのが積極的自由。
対する消極的自由は、「〜からの」自由。「この支配からの卒業♪」とか歌う尾崎はこっちの自由なわけ。こっちには確固たる理想があるわけではなくて、とりあえず自分を縛るものがあったら、そこから逃げ出しちゃおうということ。これが消極的自由。
ハイエクは、この消極的自由のみが必要であって、積極的自由(理想主義的な自由)なんかいらないよ、と主張した。「積極的」という形容が採用されてるのは、ハイエクが実証主義positivismをケインズ主義同様に批判した、ということに引っ掛けてるんだと思う。
ちょっと思い出して欲しいのが、昔ソ連政府が「我が国は自由の国だ」というようなことを言って、もの知らずの評論家から失笑をかってたけど、それはこれの逆なわけだ。ハイエクとは真逆に、積極的(すぎる)自由によって、消極的自由を否定していたわけ。
このように、「自由によって自由が否定される」ことは、けっこう頻繁に起こっている。
次に、ハイエクは理性的に理性を批判する。またか、て感じだけど、ハイエクが使用する単語は、よく概念が二重になってることがあって難儀させられる。ま、そんなわけで、この「理性」も、もちろん意味が二重になっている。
ハイエクが否定したいのは、デカルトから実証主義へとつながる、科学的理性。その根っこは、古代から中世において「神の意志へと連なるため」とされた理性でもある。
ハイエクが用いるのは、道具的理性。「理性は裁判官ではなく道具である
ratio non est judex, sed instrumentum」(アリストテレス)なわけ。科学的な理想を求めるのでなく、そのつど道具として使用される理性。理性は目的ではなく手段であり、手段が目的となってはならない、ということだ。
長くなりそうなので、本題は明日に。ごめんなさい。
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