自由ってなんて不自由なんだろう♪なんて吉田拓郎風に歌ってみたりして「ハイエクを裏から読むとわかる”自由”についてのいろいろ編」の続き

 さて、ここからが本番の本題。

 ハイエクの言うように、道具的理性を振り回して消極的自由を得るのは人間の本性である、と思える。しかし、なんか変だ。重要なことが抜け落ちてると言うか、自分の尻尾を追いかけてぐるぐる回ってる子犬になったような気分になる。

 いったい「何に」対して道具的理性を揮い、「何から」の自由(以下しばらく自由と言えば消極的自由のこと)を得ようと言うのか。とりあえずハイエクはケインズ主義や社会主義に対してそうしているが、何かに背を向けたままになっている気がする。

 ではここで考えを逆にして、「人はいつ不自由になるか」を考えてみたい。袋小路に入ったら後方に戻って考えるのがセオリーというものだ。

 人はどんな時に不自由になるか。山ほど宿題が出た時?サービス残業させられている時?パソコンがいきなりフリーズした時?こんな身近な例をいくら並べても、同様の袋小路に入ってしまうだけだ。だいたいこれらの社会的な事例では、道具的理性を揮う余地がない。

 じゃあもう一つの道から考えてみることにしよう。消極的自由ではなく、道具的理性の方を攻めてみよう。道具的理性はまず最初にどのような対象に揮うべきだろうか。ハイエクは科学的理性を否定し、これを社会(経済)を分析する学問に持ち込むべきではない、とすら言う。つまり自然科学のように、物理学のように、社会を、経済を考えるべきでないと言うのだ。なぜそこまで毛嫌いするのか。これまで人間が社会を発展させて来れたのは、科学あればこそではないか。ハイエクは一体何が言いたいのか。ハイエクの激烈なパフォーマンスに惑わされがちになってしまうが、ここは冷静に科学的理性つまり科学は、主にどのような対象に用いられたか思い返してみよう。

 これは簡単、「自然」だ。

 そう、ここに答があった。人間は「自然」に対峙した時、まず不自由になる、ということだ。

 自然は厳しい。寒いわ暑いわ、腹が減っても喰うものはないわ、反対に喰われたりするわ、裸のサルが自然の中に投げ出されたとき、自由に揮うことのできる力はあまりに弱々しく、自然に対して理性を働かせることだけが生きる道だった。それ以来「人間が自由なる」ということは、「自然からできるだけ遠ざかる」ということだった。これは、自然と一体化しているように見えるアマゾンの裸族にさえもあてはまる。

 だからハイエクは本来自然に対向して揮われるべき科学的理性が、人間社会の側に持ち込まれるのを嫌ったのだ。社会を一種の自然と見なすことは、社会を不自由なものとしてしまう、と考えたのだ。

 自由を得るために人間は言葉をしゃべり、文明を作り、都市を築き、国家を形成し、戦争を繰り返し、貨幣を流通させた。

 そう、この貨幣、すなわち金(かね)こそが、休みなく泳ぎつづけるマグロのように、人間を自由に向かって走らせつづける究極のツールなのだ。

 自然を解体して流通させ、金によって価値を与え(ポストモダン風に言うと脱コード化だっけ?)、ついには金によって金を増殖させること、させ続けることで、人間は自然から遠ざかり続ける無限の階梯(ラダー)を見いだしたのだ。

 

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 ここで、まず一つ目の答が出る。

 自由(消極的)とは何か。それは、できるだけ自然から遠ざかろうとする衝動ってわけ。

 でも都市の中にすんでると、自然なんてほとんど出会わないよね。テディベア型に刈り込まれた庭木とか、生ゴミに群がるカラスとか、そんなのは自然とは思えないし。

 じゃあ、またまた別な方向から考えてみよう。とりあえず、一般人がお金を貯めるのは何のためか。単純に「将来の不安」からとわかる。お金というツールによって、「将来の不安」から「自由」になれるわけだ。

 ではその「不安」の内容は何か。年を取ることと、病気になること、つまりは自分の肉体に関する不安が第一。そして、二番目に家族が増えること、その家族を養うということが出てくる。つまりは、老いることと、病にかかること、家族が増えることの「不安」から逃れるために、そこから「自由」になるために、人は金を稼ぐわけだ。

 今や地球上を覆い尽くさんばかりの人間社会において、常につきまとう自然とは、人間自身の肉体(がもたらす不安)ということなのだ。そして、それを個別に見ていくと、つまり「自由」主義社会において逃れるべき「自然」とは、老人であり、病人であり、出産であり、育児である。(「死」はときに裏返しの自由をもたらすのではぶく)

 自由が人間の本性であり、それを第一のものとして優先するならば、それらの「自然」に対して、大事な自由へのツールである「お金」が消費されることに抵抗を覚えるだろう。ここに、老人でありながら福祉政策に反対したり、女性でありながら女性差別に賛成したり、自分も昔はクソガキだったクセに子供にやさしくすることができない人が登場してくる。何のことはない、彼ら(彼女ら)は、野方図に「自由」を求めているだけなのだ。

 最近の生活保護たたきも似たような衝動から来ていると思われる。生活保護も将来に不安を持つ貧しい人に支給されるからだ。不安をもたらす貧困を嫌悪し、そこからできるだけ離れていたい人、つまりは貧困から自由になりたい人が貧者を叩く。

 だいたい、社会的「弱」者という言葉が混乱の元だ。こんな風に呼ぶから「やつらは弱くなんかない。むしろ強者じゃないか」などと訳知り顔で騒ぐ人が出てくる。弱者ではなく、自然により近い人々、と考えるべきだろう。

 

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 自由大好きな人が社会的弱者と呼ばれてしまう人たちに冷たいのは、彼らが弱いからではなく、より自然に近いからだ。ついでに、こういう自由愛好者たちはエコロジーやら太陽光発電に対して、必ず「うさんくささ」を感じたりする。それらが自然に近いからだ。ま、感じるのは自由(この場合積極的に)だけどさ。

 それと、新自由主義を標榜する人たちが、妙に農家に冷たいのも似たような理由だろう。

 ただ、社会的弱者と呼ばれる自然に対しては、積極的自由(理想主義的自由)や科学的理性をもって対応する方が有効だ。しかし、ハイエクは積極的自由も科学的理性も否定する。

 だから、同様に積極的自由を否定し、科学的理性に背を向ける権威主義、つまりは社会的弱者@自然を切り捨てる軍事独裁政権(ピノチェト)やファシズム(ナチス)に対して、強腰になれなくなってしまうのだ。ピノチェトに対しては協力的ですらあった。

 自由主義が権威主義に親和しやすいのは、自由(消極的)が自然からできるだけ遠ざかろうとするからだ。そしてそれは、人間が根本的に有する衝動であり、その扱いについて考え続けなければならないことなのだ。

 ハイエクは自分で答を出したつもりでいたけどね。それについてはまた次回