経験則的に何となくわかってはいたことでしたが、あらためてこうして提示されると、なんというかほっとしますな。
実際、長い文章を読むときなど、どうしてもディスプレイでは目が「すべる」感じがする。読んでも頭に入らないというか、論理的に組み上がって来ない。記憶に残らない。知識が血となり肉とならない。記号のみで実体がないと「本を喰らう」ことができない。
もしかするとこういうのは「慣れ」の問題で、子供の頃からパソコンに接しているこれからの人類は違うのかも知れないけれど、とりあえず現時点では紙の方が勝っているってわけ。
学術論文のようなものならまた違ったりするかもしれませんが、文学作品なんかはいけませんね。どうも「青空文庫」などで文章を読んでもピンとこないです。感動できない。
そうした現象が最も端的に現れるのが詩集の類い。
パソコンの仮想空間に言葉がふわふわ浮いてるのをスクロールしても、言葉がこちらの心の井戸の深いところにすっとんとんと落ちてきません。
読書という「行為」は、本来作者と読者による共同作業であり、作品から感動を「生産」するのに対し、ネット空間はあくまで「消費」のためにのみ存在しているから、なのでしょうか。
ヴィトゲンシュタインに喧嘩売るわけじゃありませんが、ネット上の言語の振る舞いは紙媒体によるものよりもいっそう「ゲーム」的で、ここは本来「ゲーム」のための空間なんだなと感じることもしばしばなので、もしかすると現実界の言語にはゲーム以外の「何か」があるのかもしれません。あ、語りえぬことは口にしちゃいけないんだっけ。
ま、以上は仮説です。上掲の記事だって、どうせ科学者の皆さんがやいのやいの言うんでしょうけどね。
あ、Part.1はこちらに。
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