幽霊なんていないいないいないいないばあ!Part.2

 文学の根本が「怪談」にあることは間違いないと思う。

 なんにしろ、「あるはずのないもの」を語りだし、人々の心のなかに映し出すのが文学の真骨頂だからだ。

 そのせいなのかどうか、文学者が化けて出るとか、どこそこの家に作家の霊が住み着いている、という類いの話を耳にしない。

 グランド・キャニオンでアンブローズ・ビアスの霊が踊っているとか、他人のズボンをはいて怪死したエドガー・アラン・ポーがの霊が自分のズボンを探してさまよっているとか、銀座で吉行淳之介の霊がナンパしてくるとか、そういう現世の面白みがいや増すようなことは起こらないみたいだ。だいたい語り手である作家が幽霊になるなんて、失敗した手品師のようで様にならない。

 

ラフカディオ・ハーン、怪談

 政治家の霊というのもあまり聞かない。ヨーロッパのお城では王様やお姫様が、自分の首を抱えて歩き回ったりするようだが、政治家たちが背広にネクタイを着用するようになってからはとんと聞こえて来ない。

 

  考えてみれば、自分の周囲を見回してみて、化けて出てきそうな人があまりいない。ウチのかみさんなんか、人類最後の日まで死にそうにない。

 幽霊というものは、常に見知らぬ、それでいて身近な誰かなのだろう。

 

 さて、哲学者という人種もあまり幽霊にはなりそうにないが、ジャック・デリダが幽霊について語っているので、一部メモしておこう。

 

…………

 私は長いあいだ、幽霊について、伝承と諸世代について、幽霊の諸世代について、言い換えれば私たちに対しても、私たちの中でも、私たちの外でも、現前したり現前的=現在的に生きていたりしないある種の他者たちについて語る準備をしているが、それは正義の名においてである。……

 すでに死んでしまったか、あるいはまだ生まれていないかで、もはや、あるいはまだ、現にそこに現前的=現在的に生きて存在するのではない、そうした他者たちの尊重を原理として認めないようなどんな倫理も、革命的であれ非革命的であれどんな政治も、可能であるとも、考えられるとも、正しい(juste)とも思われない以上、幽霊について、いやそれどころか、幽霊に対して、幽霊とともに語らなければならないのだ。

…………

 

マルクスの亡霊たち―負債状況=国家、喪の作業、新しいインターナショナル

 

 霊によって、いや例によってなんのこっちゃら今ひとつ良くわからんが、とにかく幽霊という、生きてるのやら死んでるのやら、まだ生まれる以前なのやら、時空間をともにすることのない「他者」について語ることが必要だ、と。それを語ることで、現世が「正しくない」ことがわかるから、というわけ。かな?

 

 実際怪談と言うものは、おおむね家族の倫理によって裏打ちされている。そしてそれは、社会の倫理との軋轢によって家族の成員が不正義に「殺され」ることが発端となる。四谷怪談なんかもろにそれ。

 大声で語られない「歴史」というものはそうしたもので、それが幽霊を生み出す「もと」なのでありましょう。

 

 ところで、『批評空間』で連載されてたデリダの『弔鍾(グラ)』は単行本にならんのだろうか。待ってるんだが。