鷗外と脚気についてあれこれ言われていることなどなど

「鷗外にだけは気をつけよ」

 と、皮肉屋の内田魯庵は警告した。

 何に気をつけるかというと、「論争」である。

 とにかく気に喰わぬ論を見かけると、たとえ相手が無名の野ネズミの類いであろうとも、全力で叩きつぶした。

 鷗外は和漢洋の古典に通じただけでなく、ドイツで最新の医学を修め、ドイツ語はもちろんフランス語もラテン語もこなすという、とんでもない化物である。こんなのに論争を吹っかけるなんて、テキサスでチャック・ノリスの足を踏むより危険だ。できるだけ目を合わさないようにするしかない。

 

 そんな無敵な鷗外だが、その無敵さがあだになったことがある。

 知ってる人は知っている、「脚気」についての論争である。

「脚気」というのは、原因が分かっている現代では、ヒザの皿をこんこんやってみつける病気という程度の認識だけど、明治の頃は原因不明の「死に至る病」だったのだ。

 ビタミンB1欠乏が原因と特定されるまで、いや、されてから以降も、年に一万人以上が脚気で死んだ。

 その治療法の論争に、鷗外が関わったことがあるのだ。

 当時最先端の「細菌学」を学んだ鷗外は、脚気の原因は病原菌にあるのではないかと推測し、高木兼寛等「栄養不良」を原因とする人たちを、舌鋒鋭くこてんぱんに論破してしまったのだ。おいおい。

 今ではどちらが間違っていたのか明白だ。

 しかし、軍部は鷗外の説をとったため、日清戦争で数千の、日露戦争に至っては二〜三万もの兵が脚気によって死んだのだった。

 鷗外はそのことについて、死ぬまで釈明も謝罪もしなかった。

 

 ……とまあ、なんか本によっては全部鷗外が悪いことになってたりするが、ちょっと調べてみると必ずしもそうは言えないように思われる。まるっきり責任がないわけでもないけどね。

 まず、高木兼寛の説は「タンパク質とでんぷん質のバランスが悪いのではないか」ということだった。栄養不良とする考え方は良かったのだが、厳密には正しくなかったので、そこをつかれて論破されてしまったのだ。

「麦をまぜた飯を食べさせて状況が改善したのに鷗外が無視した」という人もいるが、その実験自体も実施状況に問題があったし、さらに飯にまぜる麦の精白技術が進歩するにつれ、意味をなさなくなってしまった。

 つまり、細菌説を完全に否定できるほどの根拠がなかったのだ。

 おまけに、栄養説、細菌説の他に黴毒説があり、死に至る「衝心脚気」と呼ばれるものはこちらが原因なのでは、とされていたりした。この説、B1欠乏が原因と特定されてからもしばらく生き残っていた。

 とにかく当時の医学というものが、まだまだよちよち歩きの段階だったのだ。日本だけでなく、世界中で。

 

 たとえばこの日露戦争で、日本側は脚気によって大勢の兵士が死んだが、ロシア側には壊血病が同様の災いをもたらした。壊血病も今ではビタミンCの欠乏が原因だとわかっているが、いや当時でもすでに薄々わかってはいたが、ロシア軍はそれを受け入れなかったのだ。

 ちょっと話が横道に入るけど、船乗りにとって壊血病はおそるべき死病で、治療法といえばへんなおまじないくらいしかなかった。イギリスの船乗りたちはライムを齧ることでそれを解決し、これが大英帝国がいち早く世界に覇を唱える礎となった。しかし、他の国の船乗りたちはそうしたイギリスのやり方をバカにし、limey(ライム喰らい)と呼んで蔑んだのだった。

 どうやら日本に限らず、どこの国の軍隊も少なからずそういう石頭な傾向があるようだ。火薬の臭いには人間のIQを引き下げる作用があるのかも知れない。ロシア軍は各部隊に数千人づつ、壊血病患者を抱えていたという。

 

 ここで一つ、皮肉な話がある。ロシア軍は食料として大量の大豆を摂取していた。この大豆をもやしにして食べるということをロシア軍が知っていたら、壊血病を克服できただろう、というのだ。日露戦争の行方も変わっていたかも知れない。

 そしてさらに皮肉なことに、大豆にはビタミンB1が含まれており、日本軍がそちらを食べていれば脚気を防ぐことができたのだ。なんだこりゃ。

 日本人は大豆を加工させたら世界一だが、そのまま食べる発想はなかったようだ。なんでも生で食べたがるのに、大豆は盲点になってしまっていた。

 ビタミンB1は水溶性なので、加工するとがっくり失われてしまうのだ。

 

 日露戦争が終って五年後、一九一〇年に鈴木梅太郎が「オリザニン」を抽出し、脚気の原因はこれの欠乏によると特定した。ビタミンB1の発見より早かったが、世界的に認められることはなかった。これについては諸説あるが、精製が不十分だったとされている。おしい!

 鷗外はこのことを知っていただろう。なんたって軍医総監だ。

 でも鷗外はまったく釈明しなかった。もしすれば、当時の軍の偉いさんや、大恩ある石黒忠悳に迷惑をかけてしまう。それがまるっきり正しいことだったとは言わないが、鷗外なりに考えたうえで取った態度なのだと思う。

 

 以上の話からはいろんな寓意を汲み上げることができるけど、とりあえずここでは書かない。「なんでもできる人」(by坪内逍遥)森鷗外も、「できる」ということが徒になることがあった、ということだ。

 

 

鴎外 森林太郎と脚気紛争