出版界の海賊たちとゲーテについてのメモ

◎十八世紀半ばのドイツは、まだまだ著作権についての意識が高まっておらず、海賊版が横行していた。神聖ローマ帝国のヨゼフ皇帝は、自ら国民に対して「かずかずの複製の権利」を与えてしまっていたし、ドイツ連邦議会は複製禁止に対して何一つ対策することができなかった、とヘーゲルが講義で非難している。しかし、『ドイツ国民に告ぐ』で知られるフィヒテは、なぜか海賊版を擁護していた。

 

◎文豪ゲーテの著作は人々に広く親しまれたが、オリジナルの発行部数は千部程度だったと言われている。当時のドイツ(神聖ローマ帝国)の文盲率は七割もあり、読書する人口は限られていた。そしてゲーテの住むワイマール公国の人口は六千人ほどでしかなかった。

 

◎同時期、ゲーテとも親交のあったサー・ウォルター・スコットは、イギリスでベストセラーを連発し、三カ月のバカンスでゲーテの年収分を使ってしまうという生活ぶりだった。(ちなみに、イギリスは一七〇九年に著作権法を制定していた。)ゲーテの収入は主に枢密顧問としてのものであり、加えて祖父が残した財産の金利であった。ゲーテは幼い頃から貧しさとは無縁だったが、自身の事績について満足できてはいなかった。

 

◎当時のドイツの海賊版の横行ぶりはすさまじく、時にはオリジナルより先に海賊版が刊行される有様だった。業者が原稿を横流ししていたのだ。

 

◎海賊版が横行したひとつの理由は、国の「産業」として、重商主義に取り付かれた領邦君主たちが保護した、ということもある。ヘッセン=ダルムシュタット方伯は、書籍業者に「外国の本で高すぎるもの、領民の啓蒙に役立つもの、専門分野で必要なものは自由に複製出版して良い」と許可を与えていた。要するに、なんでも海賊版を出して良い、としたわけだ。ダルムシュタットにまともな出版産業がなかったであろうことは想像に難くない。

 

◎現在、国際的な書籍見本市が開かれることで名高いフランクフルトは、一七六四年以降しばらくの間、海賊版のメッカとなっていた。

 

◎ウィーンのトラットナーという書籍業者は、オーストリア皇帝直々に海賊版を作る特権を渡されていた。トラットナーはハプスブルク皇室御用達書籍業者兼御用達印刷業者にも任命され、マリア・テレジアから助成金すら受けていた。この海賊版業者はやがて貴族にも列せられ、「高貴なる騎士フォン・トラットナー」の称号を得る。

 

◎当時、海賊版にもっとも強攻だったのは、検閲官たちだった。検閲官は検閲に際し出版業者から報酬を得ており、海賊版は自分たちの生活を脅かす存在だったのだ。

 

◎一七七六年、最初のゲーテ全集全三巻が、スイスのビール市にあるハイルマン書店から刊行された。このゲーテ最初の全集は海賊版だった。さらにこの海賊版を元にした海賊版全集が、このあと十三種類も出回ることになる。

 

◎ベルリンのヒンブルクという海賊版業者は、勝手に出版したゲーテ全集をゲーテ本人に送りつけた。「この著作集の印刷の見事なできばえ、私はこれを私の功績だと思っております」という誇らしげな手紙を添えて。

 

◎ゲーテは対抗策として、ベルリンの出版業者ミュリウス(レッシングの義兄)と交渉し、原稿が出来上がる以前に原稿料を支払う約束を取り付けた。この原稿料は破格に高額だったため、出版業者自身が他の業者の海賊版に目を光らさざるを得なくなったのだ。そして、原稿が他の業者に「流出」することが防がれるようになった。

 

 

ゲーテ全集〈1〉詩集