『叙情日本大震災史』から抜き書き暗黒編

 昨日の続きとなります。

 

物騒千万な焼け跡の夜

 震災後程ない頃の下町方面の焼け跡は、夜になると物騒千万でしかたがなかった。青山の某人力車夫が客を乗せて築地方面へ行っての帰るさ、真っ暗な物陰からノッソリ現れた、数名の怪漢、車夫公の前に立ちはだかって『貸しとけ!』とばかり毛布や財布まで巻き上げて一目散……。

 もう一つはこれも車夫君の話、一人の客を乗せて行くと、小暗い物陰へ来た時『ここでよろしい』という客の声に俥を止めて客人を下ろすと、賃金をくれると思いの外、突然ピストルを突きつけて『身ぐるみ貸せ』と車賃が取れない上に、財布から毛布まで引ったくられて、『もうもう下町の稼ぎは御免を蒙ります』と零していた。

 

剣道の達人が同じ自警団二人を袈裟切り

 牛込早稲田弦巻町辺の出来事である。ある剣道何段かの達人が、剣道着に小倉の袴、日本刀を手挟んで電灯もつかない真っ暗な小路をノソノソ歩いてくると、これも抜き身を手にした二人が向こうから来た。出会った双方、てっきり敵と立ちすくむ、二人連れの方は相手は一人と多寡をくくったか矢庭に斬りつけた、剣道の達人は何を小癪なと之も抜き合わせて斬り合い、一人を真甲から斬りつけ、今一人をけさ切りにした。処へ警官その他の人々が駆けつけ提灯の光で見ると、斬られた二人は自警団員。剣道の達人も今さらなんと詮術なく、先方から斬りつけてきたし確かに暴漢と思い込んでしたことが間違っての同士討ちで、相当の御処分をという。為方なくそのまま警官も警察署へ引き連れた。


…………

 なにやら物騒な話になっている。目立った大規模な暴動などはなかったが、治安はよろしくなかったようだ。とにかく自警団絡みのトラブルが目立つ。災害(戦災含む)時に自警団が結成されると、本末転倒で自警団が暴力の根源となる、というのは世界中にあるので、これもその例に漏れずということなのかも知れない。ただ、この本には軍の活動があまり見られず(ゼロではないが)、戒厳令を布いておきながら治安維持に尽力した形跡があまり見られない。(書籍が検閲を受ける際、軍機に抵触しないよう軍に関する部分は省かれた可能性もあるが)

 そこで自警団が各地で簇生し、彼らが何をしたかというと『不逞鮮人の虐殺』である。

…………

鮮人と誤って夜警の倅が父を一刀両断

 父親は勘定方、倅は職工長、親子とも六尺豊かの大兵と剛力とを誇って同じ会社に勤めていた。

 鮮人襲来の声を聞くと、この親子はこの会社の自警の組長に立てられた。倅は外部を固め、親は内部の固めと部署が定まった。

 倅は尺八寸の日本刀を携えて、稍更渡る夜をひとり立っていた。そこに落ち付き払った足音が近づいた。

『止まれ、誰だ』と倅は一喝した。足音は止まらなかった。而も

『俺は鮮人だ』と名乗った。

『ナニ』と倅の声が聞こえた時に、倅の手には稲妻が光った。光とともにアッと叫ぶ声が湧いた。

『違った違った』と二声叫ぶ声もつづいて湧いたが、もう遅かった。

 角燈を照らせば頑丈な父親の姿は、倅の一刀の前に屍体となって横たわっていた。これはある紡績会社に起こった実話である。

 

…………

 上記のようなうんざりさせられる例に限らず、この本には自警団絡みの殺害事件が数多記されている。範囲は東京、神奈川にとどまらず、埼玉、千葉など被災が軽微であったところまでひろがっている。

 驚かされるのは、埼玉から関東戒厳令司令部へ護送中の朝鮮人(恐らく保護されたものと思われる)を自警団が襲撃して殺害する、などという事件もあったことだ。

 この本には、全てではないと思うが、多くの事件について記され、事件の起きた場所、被害者の名前、殺害犯の名前まで逐一記されている。

 そうしたことが起こる一方で、また別の出来事もあった。

…………

 

炎と刃を潜り子供と荷物を護った二鮮人

『鮮人愼甲晟に衷心より感謝す』『鮮人崔海道に衷心より感謝す 北村』という珍しい広告が先頃報知新聞に出たが、その裏面には人々の胸に温い感情を呼び起こす物語がひそんでいる。愼甲晟も崔海道も二人とも労働の傍ら明治大学夜学部に通う苦学生で、数年前から深川区富川町木賃宿角屋事北村喜之助氏方に下宿していた。そこへ今度の地震となり、火に追われて逃げ出すことになった時、愼は北村一家の目ぼしい衣類を背負えるだけ持ち崔はよし子という五歳の子供を預かって一同と共に永代橋の方へ落ち延びかけたが途中でチリヂリになって以来、数日間は互いに消息不明で過ぎた。北村氏の方では、愼さんも崔さんも折りからの鮮人騒ぎで殺されたものと思っていると、数日後になってヒョッコリ子供のよし子が帰ってきた。するとまた愼さんが突然荷物を届けてきた。初め崔さんは子供を背負って火の中を浅草方面へ逃げ出したが、二日目になって鮮人騒ぎが勃発したので、サア子供に傷でも負わせては大変と、あちこち北村氏の行方を探したが、一向に見当たらず、そのうち幾度となく自警団の手にかかって殺されようとしたが、兎も角一命だけは取り止め一生懸命になって飛び回った末、やっと近所の人を見つけたのでその人の手から、よし子さんを届けたのであった。愼さんの方は、逃げ出す時、北村のおかみさんが襦袢に腰巻きぎりだったので、自分の背負った荷物はどうあっても届けねばならぬと考え、越中島から芝浦へ逃げ、二日の夕方世田谷へ行った時、同所の自警団に捕まって前後からピストルと日本刀を差しつけられ『殺すからそこに坐れ、貴様の荷物は盗んだものだろう』などとサンザ打ちのめされたところへ巡査が来て漸く助かった。その後も度々ひどい目にあったが、荷物を返すまではと其の都度手を合わせて拝んではヤット許されて、遂に北村氏へ荷物を返したのである。

 

鮮人二十七名を救った在郷軍人

 府下北豊島郡高田町字若葉質商予備砲兵少尉島田藤一氏は目下同町における在郷軍人分会の副会長であるが、大震災当時町民某は流言蜚語に迷わされて当時同町の蛍雪倶楽部の演舞場に収容した鮮人二十七名を各々兇器を持って危害を加えんと押し寄せたので、同少尉は『この鮮人は決してかかる不都合者ではない』と極力防止したところから激昂せる町民は『貴様もその仲間であろう』といって倶楽部から引きずり出して暴行を加えんとしたので、隙を見てその場を逃げ帰宅の途中またまた暴民に包囲されて進退窮まり詮方なく常に自宅へ出入りせる屈強の消防夫数名に護衛されその場に積み重ねてあった材木の上に飛び上がって『鮮人は決して暴行せざること』『大国民の態度に出ずべきこと』『暴行の非違なること』について演説をなすと共に彼等が鮮人の所持せる所謂毒薬なりと確信せるものを自ら群集の前に立って飲んで見せたので、一同引揚げ無事なるを得たその後も九月一日から十七日まで護衛を附し日夜寝食を忘れて町長始め町会議員らを援助して大々的活動をなしたことが後で判ったので町会ではもし当時同氏がいなかったならば同町にも自警団暴行事件を惹起したであろうとて町会一致で同士を表彰した。

 

…………

 虐殺の件はいまだ謎も多く、一概には言えないが、朝鮮半島において「三・一独立運動」(一九一九年震災から4年前)から独立への機運が盛んになり、それに伴って半島で暴動が起きるたびにその有様が誇張して伝えられていたことも一因かと思われる。

 また、デマの拡散に軍が関与したとの説もある。

 

 なお、大正十三年当時のオリジナルを参考としたため、仮名遣いは改めたが、表記等は当時のままとなっている。

 

 

叙情日本大震災史