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今日、次の重大事に気づかない人はいないだろう。社会的、宗教的、経済的な諸般の事情が奇妙に競合して男と女が離れ離れに暮らしているということに。
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最悪なのは彼らが急いで近づき合おうとしていないように見えることだ。お互いに語り合う何ものも持っていないらしい。家庭は冷え冷えとし、食卓には会話もなく、ベッドは凍っている。
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誰もがよく分かっているから、何びともこういった結婚は欲しない。もしも我が国の相続法によって裕福な女が作られなければ、少なくとも大都会では、結婚するものはもういないだろう。
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いきなり引用から初めたのは、「なんだか今の日本みたいだね」と思ったからだ。
引用元はミシュレの『女』
十九世紀半ば、フランスで書かれた本だ。
簡単に解説しておくと、十九世紀のフランスも「少子化」に悩んでいた。
といっても人口が減少したわけではない。十九世紀中に四割ほど増加している。しかし、ドーバーを隔てたお向かいの島国は人口を三倍にもふくらませ、「日の沈むことなき帝国」を着々と形成していたのだ。つまりは「相対的に」見劣りがしてたってわけ。
しかし、ミシュレの記述だけ見ると、これが「男も女も五分に一回セックスのことを考えているアムールの国」(by西原理恵子)のかつての姿とはとても思えない。
今では本物の少子化に悩む日本を尻目に、先進国での人口増加の数少ない成功例、となっている。大統領からして事実婚だもんね。
さて、ここで「フランスを見習おう」というつもりはない。フランスは結婚という制度のほかに、恋愛を制度化することに成功したわけで、その結果として人口が増えているだけだからだ。
てか、もともと恋愛てのは一種の「制度」なんで、文化として確立してないとさっぱり機能しないんよ。十九世紀のフランスって、国を挙げて「恋愛」の制度確立に邁進していたようなとこがあって、プルーストの『失われた時を求めて』なんか、ほぼ全編がそれ。純情可憐な主人公のじれったさには読んでてじたばたさせられてしまうが、こういう文化的なバックボーンがあったから可能だったのだろう。
日本が明治時代にえいやっとやっつけで作った「制度」って、ほぼ「男の欲望をうにゃうにゃする」ためのもので、恋愛でもなんでもなかったからね。日本の文学って、恋愛を扱うと「いかに恋愛は不可能か」てことばかりで、恋愛小説じゃなくて恋愛不可能小説になってる。『金色夜叉』とかさ。
結婚がだんだん減少しているそうだ。そりゃ今の結婚ていう制度が「男の欲望をうにゃうにゃする」ことを前提に作られてるようなもんだから、減っていくのは当たりまえだろう。
少子化を解決するには、何かもうひとつ別な「制度」が必要なんだろうけど、それが何なのか皆目見当がつかない、というのが現在の状況なのだ。
だいたい、本気で解決しようなんて、誰も考えてないみたいに見えるし。
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