ウソをつかねば息ができないのだからPart.2

しつけ:「うそをつくな」で年収50万円差 神戸大調査

http://mainichi.jp/select/news/20130914k0000e040160000c.html

 

 タイトルだけで「うそやろ」と思わされますね。

 もしかすると、子供の頃のしつけってのは、後々裏返ってしまうのかもしれません。

 ゲンジツのオトナの社会ってのは、ウソをついてバレてもまたウソをついてとにかく最後まで認めない、というのが総理、じゃなくて成功者になる秘訣みたいになってます。

 

「ウソ」というのはあまりに身近すぎるせいか、真剣にその存在について考える人は少ないようです。せいぜい「他人のウソを見破るにはどうすればいいか」ということくらい。

 このブログでは何度も「ウソ」についてとりあげていますが、とにかく「科学」と呼ばれるものは基本的にウソに弱い。というか、ウソを見破れない、見破る機能を持たない、わけです。「科学的に間違ってる」ということはできますが、その「間違い」がウソかどうかはわからない。単純なミスかも知れない。科学的に無知だっただけかも知れない。ウソを見破るのは、科学以外の別な調査と判断によります。

 だって科学にとっては「正しいかどうか」だけが問題なのであって、「ウソかどうか」なんてのは扱う範囲外なんですから。

 そしてそこには「論理」の問題もひそんでいます。

 

 論理のうちのもっとも基本的で単純で誰もが使用しているものは、それが「正しいか間違ってるか(正か偽か)」ということにのみ機能するので、「間違い」が果たして単なる間違いなのか、それとも故意にウソをついたものなのか、については区別がつきません。「間違い」を口にした人間を「ウソツキ」とするかどうかは、論理以外の別の判断によります。

 その「間違い」が何かの勘違いから来てるのか、とにかく口にした人間が馬鹿すぎるだけなのか、悪意を持ってウソを垂れ流してるのか、を判別しようとすると、論理だけでは追いつめきれないことが往々にして起こります。

 最近だと「安愚楽牧場」の件がそうですね。明らかに詐欺臭いのに、詐欺としての立件は見送られました。

 こうした「論理」もまた、「正しいかどうか(正か偽か)」のみが問題であって、それが「ウソかどうか」を問うことはありません。

 

 気をつけたいのは、こういう「論理」の性質を悪用する人がいる、てことです。

 とにかくその人間が「ウソをついた」ことを糾弾する場において、「論理」を持ち出されると、問題が「ウソかどうか」から、「正しいか間違ってるか(正か偽か)」にずれていってしまうのです。

 ちょっと前に話題になった「東大話法」てのがそれですね。

 

 

原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―

 

 論理的に正しい分タチが悪いんですが、結局は「ウソから目をそらさせる」「ウソかどうかを問題じゃなくする」というのを目的とするなら、「論理」のみを振り回すことによってウソツキの味方ができるわけです。

 別にこんなのは東大に限ったことじゃないんで、このネーミングは個人的に気に入らないんですが……

 詐欺師が「頭が良いと自分で思ってるやつの方が騙しやすい」というのと、構造が似ています。

 

 じゃあ科学も論理も当てにしない方がいいのか、というとそういうことではなくて、限界があるんだからその限界を良く見極めなきゃなんない、ということです。

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コメント: 2
  • #1

    sunpaul009 (土曜日, 14 9月 2013 18:57)

    311以来、自分の勘や感情的な側面を馬鹿にせず、耳を傾けるようになりました。理屈じゃないその時々の瞬時の勘や感情という判断が大切な時もあると思います。ただし、自分が自分の、そして社会の感情に支配されるのも癪ではあります。難しいですねぇ。

  • #2

    ひらきや (土曜日, 14 9月 2013 19:31)

    直感に対してどのような態度でのぞむべきか、というのは難しい問題で、なかなか結論が出ないものです。
    とりあえず、「金銭」というものはかなり邪魔をしてくれるようですね。