ビートたけしが毒舌だとかまったくもって感じたことがないんだけど

 娘の教育に頭を悩ます日々でありますが、ここであらためて

 

「教育とはなにか?」

 

 という問いを立ててみたい。
 我ながら頭の悪そうなテーマだなあ、と思うけれど、なんか見落とされていることがあるような気がするので。

 普段日常的に一般の人々が教育に求めていることは、

「バカを賢くする」

 ということだ。ぶっちゃけすぎかな。プラトンは「魂に知識を注入するんだ」とか言ってるけど、まあそんな感じ。

 しかし「学校教育」ってものには、それ以外のものも求められている。

「バカと利口を選別すること」

 またぶっちゃけすぎ?でもそうでしょ。

 ところでこれ、最初の「バカを賢くする」のと矛盾してるよね。その矛盾を解消するために、「ゆとり教育」とかいろいろやっては失敗してるのが現状なわけだ。

 

 さて、なぜ学校はバカと利口を選別しなくてはならないか。それには、普段ほとんどの人が忘れている、「教育」のもう一つのはたらきについて考えなくちゃならない。それは……

 

 「家族から個人を分離すること」

 

 ひとことで言うと「一人前にする」てことなんだけど、そう言い回しからは「家族から個人を分離すること」が本来の目的であることは隠されている。だって、隠しとかないと親が子供を「教育」しなくなっちゃうから。

 その昔、学校制度が日本に入ってきたばかりの頃、子供を学校へやろうとしない親が多かったのは、別に貧乏ばかりが理由じゃなかった。変に知恵がついたら親の言うことをきかなくなって、そのうち家も村も捨てて別なところに行っちまう可能性があるから。山本夏彦がエッセイに書いていたけど、戦前だって教室で「親孝行」なんて口にすると、指差して笑われたそうだ。学校に行ってればそうなるのは当たりまえだのクラッカー(様式美)だったのだ。つい最近まで「女に学歴はいらない」なんて言われていたのも同様の理由。とくに女性は家族にとって交換しうる再生産財(byレヴィ=ストロース)だったから、ヘタな知恵をつけさせないようにしてたわけ。

 そんな親たちから「教育」の本来の目的を隠しつつ、子供たちを学校へと積極的に向かわせるにはどうすればいいか。それには「学校を出ると出世して、いっぱい給料をもらえるようになる」と喧伝することが必要だった。

 つまりそのために学校は「バカと利口を選別する」ようになり、ついにはその手段が目的となって、本来の「教育」の目的である「バカを利口にする」「家族から個人を分離する」ことがないがしろに、というか、みんな忘れてるよね、これ。モンスター・ペアレントとかちょっと前に騒がれたけど、そういうのが「忘れてる」ことの象徴的な出来事だったと思う。

 忘れてるっていうか、みんながわかんなくなってしまうのは、こういう現象が時系列で順々に起こるわけじゃなくて、いっせーのどん、で降り掛かってくるからだ。

 

 つまり受験戦争てのは、「家族向けの教育」なわけ。そしてそれが当たりまえになってくると、今度は家族の方が「教育向けの家族」になってくる。もはやドラマの中でしかお目にかかれない有機的に繋がった家族ではなく、別なものに変質している。束になった薪ざっぽうみたいに、ちょいとたがが緩めばばらばらになるような何かに。亡き森田芳光監督の『家族ゲーム』なんかに良く描写されてる。

 そして「個人」というものも変質する。

 その昔、ソクラテスや孔子が教育によって弟子たちを家庭から引きはがしたのは、「個人」として国家に参加しうる人格を備えさせるためだった。

 学校教育もほんとはそうなんだけど、そんなことすると限られた人間しか学校に来なくなるので、「家族向けの教育」に甘んじている。

 そうするとどういう「個人」が育つかというと……

 みんな「ビートたけし」みたいになりたがるようになる。

 ずいぶん前に書いたエントリー「ビートたけしが毒舌だとか全く感じたことがないんだけど」にここで繋がるわけ。

 以前は「よくわかんないけど、ノスタルジーみたいなもん?」と書いたけど、そういう風に「育ってる」、言わば「育ち」なのだ。

 

 今、大勢の人が欲している「自由」てのは、どこかちゅうぶらりんで、無責任な「自由」だ。そしてそれは、黒板にでかでかと「自習」と書かれた教室で醸成されたものなのだろう。

 

 えーっと、つづく、かもしれないけど、きっとつづかない。

 

 

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