そういえば今日は文化の日だけど例の「お手紙」について

 あらためて、天皇ってなんだろう?と思わされる事件がありましたんで、縷々述べてみたいと思います。まあ、天皇っつーか、天皇「制」ですね。

 

 将棋というものについて大体の人はご存知のことと思う。駒の並べ方すらおぼつかない人でも、「王様をとられたら終り」くらいのことは知っている。ピンはテレビで中継したりする名人戦から、キリは紙の将棋盤で会社の昼休みにちまちまやってるやつまで、かなりレベルが違う。最近はさっぱり見られなくなったけど、昔は縁台で将棋を指すことがあって、そのまま「縁台将棋」と呼ばれていた。

 で、この縁台将棋だが、ヘボいのは当然ながら、よくズルがあった。いっぺんに二回指す、ちょいと角道をずらす、持ち駒を見せてくれと言って相手が盤上を見たまま手を広げると、ひょいと歩を一枚拝借する、などなど。賭け将棋で食べていた花村元司が書いていた。

 中でも大技は「王将を隠しちゃう」というものだ。

 ええっ!?と思うが、相手もまさかと思っているので、けっこうひっかかるのだという。盤上に王様がなければ負けることはない。

 ではここでひとつ思考実験。

 相手も同じように王様を隠したらどうなるだろう?

 それはもはや将棋とは言えず、ゲームですらない。勝ち負けのない駒のやり取りが延々と続くだけだ。しかし、「王将」という拘束を離れた駒たちの動きは、極端に自由なものとなり、ポストモダンチックですらあるだろう。

 しかし、そこに出現するのは、勝負ではなくただの馴れ合いだ。

 

 天皇「制」という単語を耳にすると、頭に浮かぶのが上記のような事柄だ。日本人の間にある、「決定的なことが何も起こらない」空気というものは、こうして醸成されているのではないか。ロラン・バルトが『表徴の帝国』と表現したそれは、互いに「王を隠す」ことによって成立する。

 

表徴の帝国 (ちくま学芸文庫)

 

 こうして、日本のそこここに、「何も起こらない」「何も変わらない」空間が出現する。それは一見、非常に緩やかなものなので、簡単に変化させられそうな気がする。が、そうした試みはほとんどの場合、失敗する。肝心の王将がどこに隠されているか判らないからだ。

 未曾有の震災が起こり、原発がメルトダウンしても、街には人があふれ、旧政権党は復帰し、テレビのバラエティ番組では震災についてなにもふれず、原発については一種のタブーにすらなった。別にこれは「原発ムラ」とやらの策謀だけではない。「何も起こらない」「何も変わらない」ことのシステムが、その機能を十二分に発揮したということだ。

 

 原発がびっくり箱みたいに屋根を吹き飛ばしてから、このシステムについていろんな人がいらだってきた。どこをどう押せばそれを揺るがせられるのか、その人たちにはわからなかった。

 そしたら、山本太郎とかいう、銀行の書類の記入例に書かれているような名前の元俳優が、ひょいとそれをやってしまった。天皇に手紙を渡したのだ。なんだかビル火災でおたついてたら、小学生にさっさと火災報知器のボタンを押されたような格好だ。

 天皇について「触れてはならない」とすることで、戦前のような政治利用を封じる裏返しに、社会が変わることを押さえ込んできた。それにいきなり触れたもんだから、右も左もデリケートゾーンを触られた女子高生みたいな大騒ぎになった。(なんかやらしいな)

 

 自分もびっくりはしたが、事件自体はそんなに大したことではないと思っている。

 個人的には、小泉純一郎の反原発発言と似たようなくくりに入っている。

 つまりこれは、「もう顔を背けたままでいるなんて、無理無理無理無理かたつむり!」ということの現れなのではないか。

 そろそろ「完全にブロック」できなくなりつつある、ということが、こうした形をとって現れてきた、ということなんだと思う。